白米の千枚田

2001年1月29日千枚田は国指定名勝文化財に指定されました


蓑隠れの話し

むかし、百姓夫婦が田植えを終えて、念のため水田の数を数えてみた。千枚あるはずなのに、どうしても二枚たりない・・・ 日も暮れたのであきらめて帰ろうと、そばにあった二人の蓑を取り上げてみると、その下に二枚の田が隠されてあったと言う。

「蓑の下 耕し残る 田二枚」の一句も伝えられている。

漆の里今昔物語

今は昔、室町時代の末頃であろうか日照り続きで千枚田の稲の殆どが実らなかった年がある、その晩秋白米村の揚げ浜塩田の渚に一体の仏像が流れ着いた、村人の一人がこれを拾い上げて堂山の寺院に安置した、村を挙げて供養したところ、翌年から千枚田の稲は大豊作になったという。

その後、天正7年5月、前田利家の能州討ち入りがあって堂山の寺院は焼き払われてしまった、しかし、この仏像だけは焼けずに残ったので、山王宮の拝殿に安置した。
この時海岸に向けて安置したところ、沖を航行する船がしばしば遭難するようになった、そこで、山へ向けて安置した以後は船の遭難も全く無くなり千枚田の稲も、ずっと豊作が続くようになったという。
村人達は仏像を「田の神様」と尊んで神社の祭礼ごとに御飯御酒を供えて新殻を感謝し、また豊作と海の安全をも祈り続けている。

白米の千枚田

千枚田は、実際には2092枚(国指定名勝文化財に指定された田の数は1004枚)ものミニ水田が連なっている。田の数が多いことから千枚田と称するが「狭い田」が「千まいた」になり「千枚田」と呼ばれるようになったと言う説がある。一枚の田の平均面積は5.6u(約1.6坪)で現在では13戸のうち4戸が田植えを行っているが、残りの田は市役所が中心になり企業や団体、市民、観光客など協力より田植えが行われている。袖付けため毎年高い方の土を削って田んぼへ入れるので自然客土となり肥料も一般の半分位でよいといわれ病害虫も少なく、収穫量は二石六斗、米の味は時に優れており消費者からは大いに歓迎されている。

千枚田は擬滑りの急傾斜地で有るが寛永15年頃(1638年)能登小代官に赴任中の下村兵四郎(後の板屋兵四郎)が築造したという谷山用水もあり水利には不安はない。

平地が少なく狭い国土、勤勉な国民性など千枚田は我が民族の象徴ともいえる。縄文土器をも思わせる、その造形模様は美しく、昭和31年輪島市の名勝指定された。

白米村はかって製塩も盛んであった。寛永12年(1635年)の記録によると出来塩1295表とあり延宝2年(1674年)の記録でも13件のうち百姓数は6件也の7件は塩士であったといえる。また、当時塩を収納したという御塩蔵跡も残されているが揚げ浜塩田は、その後海岸の浸食により水没、今は跡形も無くなっている。